屋根の上で、去年の雪が白くかがやいて解けていく。
年末の寒い日に、母が死んだ。病院に入院した日の夜、死ぬとは思っていなかった。それからいろいろと、すぐに決めなければならないことがやってきてわたしの一存で、前例がないといわれることを実行しなければならなかった。
すべてが終わり、大晦日には雪になった。買い物にも行きそびれたまま、おせち料理もしない、質素な正月になった。
母の棺の中に何を入れようかと、考える時間はあまりなかった。妹がオーバーを入れようといった。貧しかった母が気に入っていたオーバーは、私がずいぶん前に買ってあげたもので、それを着て出かけることもあまりなかったのか、まだ古くはなっていなかった。棺の中の母に、寒くないように妹が掛けた。
花をたくさん入れようと思った。白菊の花束を葬儀社のサービスで一束入れてくれたけれど、それはいかにも淋しげなものだった。春らしい花にしたいと思った。80才まで生きれば充分であり、長い間おつかれさま、という気持ちをこめたいと思った。好きだった花はなんの花か思い出してみると、ツバキや水仙、沈丁花など庭に咲く木の花などで、今どきのおしゃれな花ではなく、ましてバラや百合やチューリップが似合うような母ではなかった。もしも戦争がなかったら、東京でもっと幸せな人生があったかもしれないが、その場合、どんな花が似合う人だっただろうか。都会的な花になっただろうか。だとしても必ずしも棺に入れるのにふさわしい花とは限らない。わたしには想像がつかなかった。
花をあれこれ思いながら、花屋に行ってみると、スイートピーのピンク、黄色、白がやさしく、母にふさわしいと思った。今思うと、全部買い占めてもいいほどの少ない量だった。もっといっぱいの花で埋めてもよかったと思う。
妹はカーネーションを用意してきた。やはり思うことは同じで、白いカーネーションではなく、ピンクのカーネーションを母の顔の周りに散りばめた。せめて、最後くらいは華やかなピンクで飾ってあげたいと思う。どんな母であったにせよ、晩年は痴呆でひどい状態であっても、わたしたち姉妹の母だった。カーネーションで飾ったことを喜んでくれたと思う。母は化粧をすることもなく働いてきた人だったが、口紅の色もピンクにきれいに塗られていて、案外似合うじゃないの、と思った。葬儀社の人の配慮であろうか、看護師さんたちであろうか、人の心の優しさが静かに伝わってきて、緊張している心が和らいでいくようだった。生きているときには一度もつけたことがなかったと思われる、ピンクの口紅をつけた母だった。
病室で死亡を確認して霊安室に運ばれていく前に「ゆきげ」にしたいことを看護師さんに告げ、自宅にもどり、ちらかった机の上から生協のチラシを探し出し、電話したのは夜中の1時頃だっただろうか。病院に戻り、霊安室で待つこと1時間、なんとか段取りをつけることができた。みなさん、とても親切で的確な対応をしてくださった。母の遺体は自宅には戻らず、病院から葬儀社に運ばれ、一晩預かっていただき、通夜、葬式をしないで火葬にすることにした。夜中の2時過ぎにばたばたして、体調も悪く、のどが渇いていたときに葬儀社の男の方が出してくださったお茶の味を思い出す。おいしいお茶をありがとうございました。
娘といえど、50才も過ぎれば体調も悪く、膠原病、リウマチという難病になった年だった。すでに父はなく、妹だけが身近な親族だった。いろいろなことが考えられるけれど、もはや高齢者ばかりで、遠くの親戚や、つきあいのない人たちに連絡しても、12月も押し迫った寒空に、おたがいに義理でつきあうのも、現実に添って考えると迷惑なことだと思う。ここらあたりで誰かが思いきって変えられるものは変えていく、という毅然とした態度が必要かと思う。夜中の病院の霊安室でわたしは決意した。出入りの業者さんに、
「実は、親族といっても妹だけで、父方も母方の親戚も、もう亡くなっているので、お通夜、お葬式といってもつきあいもなく、12月の暮れも押し迫ったこの時期に、来てくれるのは妹の家族4人だけなのです。申しわけありませんが、お通夜もお葬式もしないですませたいと思います。」と言った。
そして、「ゆきげ」にお願いしたことを告げ、すみやかにバトンタッチすることができた。どの人も親切で、温かい人柄のように思われた。葬儀社に移動してからも同じことを告げ、前例がないといわれながらも私の気持ちは変わらなかった。道なき道を分け入っていくのが好きな性分かもしれない。茨の道はとげとげしいことが、これから出てくるかもしれない。老人ホームに入所していたので、近所づきあいもなく、古い習慣からは脱皮できた。本来なら自治会とか地域のお世話になるのかもしれない。まだ知らせずにいる。生前にお世話になったご近所には、落ち着いてからあいさつに行きたいと思っている。
年賀状が来てしまった。七草が過ぎてから一枚ずつハガキを出した。雪景色の写真や、丹沢の山や植物、春の訪れを告げるスケッチなど空の美しい絵はがきを選んだ。そんなことから、これからもわたし流に生きていく自信がついたと思う。世間とか常識とかにあわせていればなにも考えずにことが運び、楽だったかもしれないが、それではなにも変えることはできない。あとで請求書をみておどろくことになる。夫は失業中、わたしは難病、住宅ローンはまだ15年もある。母もこれでよかったと、娘の成長を喜んでくれていると、わたしには思える死に顔だった。心なしか笑っているように見えるのも、病室では開いていた口を、看護師さんが閉じてくれたからだと思う。それぞれの立場で少しの心配りが、やさしさをもたらしてくれる。人はだれでもいつか死なねばならない。1人の死がこんなにもていねいに扱われ、すみやかに骨になり、煙になり、空と大地に帰ることを、今さらながらしみじみと感慨深く思う。そう思える、それだけでも幸せなことではないだろうか。また妹の子供たちに、これからの人生を生きるのに少しでも役に立つよい経験になってくれたらと思う。
宗教とはなんだろうか。人が死ぬと押しかけてくるのが宗教だろうか。
父の時がそうだった。しかも、近所の○×△会というニセ宗教信者の人々がおしかけ、お帰りいただくのが大変だった。今回の母の場合もやはり来た。すべてが終わってから「お悔やみ」に来ましたというけれどお断りしますといって、玄関先で帰ってもらった。母が仏壇を買わされ、その後もしつこくつきまとわれていた。宗教とはなんだろうか。ほんとうの宗教というのは、お金を取ったり、人がいやがっているのに無理にすすめたり、しつこくつきまとうものではないと思う。ニセ宗教ほど、人の不幸が好きなようだ。わたしは人の不幸より、幸せを願っている。人が幸せなら自分も幸せな気分になれるし、悲しんでいれば悲しい気分に引き込まれてしまう。母が急に死んだとき、とっさに「ゆきげ」にしようと思った。それはほんとうに救いになった。後々まで、いろいろな手続きがあり、何から手をつけたらいいのか、気が重くなっているとき、「ゆきげ」の方が自宅に来てくださり、費用の精算をしてから、これからしなくてはならないことをていねいに説明してくださった。土地の相続のことなどまだ費用がかかることが多い。ひとつずつ自分でやってみようと思っている。「できますよ。60才の方もできましたよ。わからないことがあったら遠慮なく問い合わせてください。」といってくれたのは、心強く、うれしかった。
戦後60年、変わらないことは、変えられないが、変えられることは変える勇気を持って、今年こそ、新しい生き方を模索していきたい。自分の人生をふりかえり、これからどう生きて、そして死ぬのか、それはお金の使い方に大きく関わることなのだと思う。雪が解けていくように、いつかわたしも残すものは残し、残さなくていいものは残さない、潔い生き方をしたい。
長くなってしまいましたが、ここに、感謝をこめて、関わってくださった皆様に、お礼の代わりとさせていただきたく思います。ありがとうございました。
2005年 新春
大和来店者 1万名 記念フェア